BEAYS(新装版)

本と図書館のことについて、つらつら書いてゆくblogです。

2011年に向けて(ほぼセルフ激励文)

このブログを始めて、ほぼ一年が経過しました。何事にも冷め易く飽きっぽい当方がここまで続けてこられたのは、こんな世迷言でも目を通してくださる皆様のお蔭です。あらためてお礼申し上げます。
さて、先日、某講習会用の自己紹介シートを書いていて、2010年は何一つ創造的な業務をしてない、ということに気づき、ちょっと落ち込んだ。「最近の取組・業績」の欄に書くことが何もない、とほ。
でも、いろんなお話を伺い、いろんな本を読み、ちょっとした戯言も書いて、自身に蓄積されてきたものはあるように(あるいは、あるはずだと)思う。年明けから年度末に向けて、やらなくてはいけないことが多々あるので、とりあえずそれに邁進しなくては。
おそらく、2010年は、当方自身にとっても、当方の職場にとっても大きな転機の年になるはず。今までの殻を脱ぎ捨てたときに、何が現れるのか。蛹の中のどろっとした液体が、最終的にどんな形に固まるのか。まだ得体が知れないけれど、せっかくのウサギ年、ぴょんと飛躍する年にしたいと思う。

ま、さいしょから気張ることはないか……。えらい人もこういってるし。

まあ、いいわ…大切なのはスタートじゃなくて、フィニッシュだってことくらい昔から知ってるもの…
ペパーミントパティ

http://twitter.com/SNOOPYbot/status/15305123102203904

書架整理とペンキ塗り

以前も書いたけれど、当方の職場では毎朝、職員が分担して書架の点検作業をする。その昔、業務の合理化とやらで、この作業を止めてしまおう、という話が出たこともあったのだけれど、お客様に乱れた棚を見せるわけにはいかない、というわけで(?)、今も続いている。個人的には、こんな楽しいひと時がなくなったら、毎日の仕事が味気ないだろうな、と思う。
何しろ、月替わりで、開架の棚を少しずつ、本とにらめっこしながら整頓作業をするわけだ。興味のある分野の棚はもちろん、普段全く目の向かない棚も、毎日毎日、半強制的に眺めていると、自然に、なんだか面白そうだなと思える本や、これ読んでなかったと思う本が、二、三日に一冊くらいの割で見つかる。さっそく借りたり、カーリルの「読みたい」リストに放り込んだりしておく。たぶん、本好き、読書好きにはたまらない作業。図書館勤めならではの特権というべきか。
なんとなく、トムソーヤのペンキ塗りのくだりを思い出した。あれは、めんどくさい手伝いを舌三寸で友だちに押し付ける話だったけど、朝の書架整理は、めんどくさいどころか、誰かに譲る気なんてさらさらない。おはじきだのドアノブだの、いくら積まれても、こればっかりは、ねえ。

夢を語ること、夢を実現させること

「お金がない」が口癖になっている公共図書館業界。でも、いざお金が転がり込んできたときに、じゃあ、何をする?
蔵書を増やすだの、書庫を立て替えるだの、空調施設を修繕だの、どれも大事で必要なことだけど、なんだか小ぢんまりした夢のない案ばかり思い浮かぶ。いわば、後回し案件の「これ幸い」的解決。節操のない既存路線の延長。「まあこんなところか」事案の数々。何しろ、下りてきた予算は消化しないといけないよね……。
こんなはずではなかった。お金さえあれば、チャンスさえあれば夢を実現できたはずなのに、肝心なときに何もできない、何も思い浮かばない。
結局、夢がある、と思いこんでいただけだったのか。口にされることも、文字として定着されることもなかった漠然とした思いは、所詮、ただの幻にすぎないのか。
横浜で夢を語った人たちがいた。突拍子もない、実現可能性の低い夢もあったし、表現も拙いものだったかもしれない。でも、ちゃんと自分の思いを自分の言葉で紡ぎ出した。それだけで、彼(彼女)らは評価されるべきだ。
夢を実現するためには、気づきを言葉に、アイデアを企画書に、一人の思いを組織の力に変えなくては、と思う。

図書館員はブックディレクターの夢を見る

行きつけのパン屋さんがある。美味しいのはもちろん、イートインがあってコーヒーも無料で飲めるので、休日の遅めの昼食なんかにとても重宝している。で、そこのイートインはちょっとしたカフェっぽくなっているのだけど、本棚なんかもあったりする。ただ、その棚の中身がちょっと残念な感じ。
スカスカの棚に、申し訳程度に置かれているのは、箱入りの個人全集(箱から出された形跡なし)とか、国語の辞書(誰が読むの?)とか、自然科学系のノンフィクション(個人的には好みだけど……)とか。日の当たる窓に面しているから、日焼けもひどい。ディスプレイだとしても、たぶんマイナスでしかないだろう。なんだかもったいない。
勝手にテコ入れ(by 小山薫堂氏)ってわけでもないけど、ちょっと自分なりに夢想してみる。いわゆるブックカフェとは違い、あくまでおまけ的なイートインだから、間取りもゆったりしていないし、コーヒーのお代わりが出来るわけでもない。そもそもそんなに長居させる業態ではない。お店自体も結構流行っているようで、頻繁に人が行き来している。お客様にしても「棚の本にふと目が留まって、ゆっくり読書」なんてあまり期待されていないだろう。
それなら、ディスプレイと割り切って、お店の雰囲気に合わせた洋書や写真集を置いてみたり、装丁のきれいな絵本を面陳してみたらどうだろう。あるいは、ちょっとの隙に読める詩集や短編集(それこそ百年文庫とかシンプルでよさそう)を置いてみるとか。読む読まないは別として、パンに関する専門書やパン職人の本、食に関する本を所狭しと並べて、お店のコンセプトを表現してみるのはどうか、などなど。
本職のブックディレクターには及びもつかないかもしれないけれど、棚一つでいろんなことが表現できそうな気がする。これって図書館で実現できないかな。団体貸出の形で定期的に入れ替えれば、過度に日焼けすることも防げるし。どこかが既にやってるのかもしれないけど、いわゆるビジネス支援として結構有効なのでは、と思った今日コノゴロ。

図書館と『泣いた赤鬼』

少し前に、上司に言われた言葉がずっと胸に残っているので、勝手にご紹介(関係者の方々ごめんなさい)。いわく、「図書館って、『泣いた赤鬼』の赤鬼だよね」。
赤鬼こと某図書館は、たくさんの人に利用してほしいと思った。例えば、ビジネスパーソンや起業家、中小企業経営者、自営業の方々などと仲良くなりたいと考えた。そこで、関係資料を集めてコーナーを作り、外部データベースを入れ、広報活動も行なった。「図書館はビジネスのお役に立つところです。どなたでもおいでください。無料で便利な情報源がございます。レファレンスもございます」。
でも、思ったように利用には結びつかない。某図書館は悲しみ、悔しがり、腹を立てて、せっかく立ち上げたサービスの看板を下ろしてしまった……。
赤鬼は、仲良くなりたいと思った村人たちに自分がどう見えているか、全く考えていなかった。準備を整え、看板で(消極的な)呼びかけをし、ただ待っていただけ。なぜだれも来てくれないのか、村人の立場になってその理由を考えることをしなかったし、自分から村人たちの中に飛び込むこともしなかった。赤鬼が村人と仲良くなれたのは、青鬼の、どこまでも冷静な判断と自己犠牲の結果に過ぎない。
図書館には、青鬼はいない。いたとしても、そのような犠牲を強いることなどできない。赤鬼自ら、変わるしかないのだ。

初めてのプレゼントは、規則リスト?!

最近、妙に病気がちで、年齢を意識する今日コノゴロ、急に鼻の具合が悪くなって、近くの耳鼻科にお世話になった。そこは比較的若い先生がやってる個人病院なのだけど、そこに先生の来歴や病院の方針をエッセイ風に短くまとめた冊子が置いてあって、おっと思った。
冊子の内容としては、なぜ医師を志したのか、から始まって、その後の経歴と、そこで学んだり感じたりしたこと、それを活かしてこんな病院にしていきたい、というもの。Wordで作った、デザイン的には垢抜けない感じのものだけど、待ち時間に読んで、妙に心に残った。そういえば、以前行った皮膚科や歯科にもこんなのあったな、とあらためて思い出したり。個人の病院では流行りのやり方なのかもしれない。
なにかと忙しそうな個人病院で、週1回15分程度診療してもらう程度のかかわりでは、その先生の腕や人柄、病院の方針なんてわかりようもない。でも、こういう冊子を読むと、なんとなくその先生に親近感が沸いてくる。こういう先生なら信頼できるかも、と思わされる。
それに、この病院はこういうことに力を入れています、と宣言されて初めて、患者であるこちらはそれが出来てるかどうかを気にするようになる。おそらく、その評価は比較的高くなるだろう。もし低い評価を下されたとしても、悪いところを指摘してもらえる可能性が高くなるはず。病院にとっては、見て見ぬふりで、もう来ません、の患者さんよりは遥かにありがたい。
初めての病院で何かと不安な患者さんにとって、この冊子の効果は大きい。検査待ちの小テーブルにさりげなく置いてあって、「5分くらいで読めるようにまとめてあるので、待ち時間で読んでみてください」とあったのも、患者さん目線でポイント高い。
初めてのお客様に図書館の利用登録をしてもらう際、利用案内みたいなものをお渡しするところがほとんどだと思う。当方の職場では、利用カードをラミネート加工する関係上、少し待ち時間が発生するので、その間お読みください、と利用案内を渡している。この利用案内は、もちろん開館時間とか、貸出冊数とかのルールが書いてあるもので、それはそれで重要なのだけど、少なくとも読んで面白いものではないし、図書館に親近感や愛着を持ってもらえるものではない。

初めてその図書館を使うお客様に最初に伝えなくちゃいけないことは、禁止や制限ばかりのルールじゃないはず。ウチの図書館が何を目指しているか、という決意表明だったり、こういう風に使ってください、という提案だったりするのでは?

本の宝庫である図書館で最初に渡されるのが、箇条書きされた味気ない規則リストだというのも、なんとなくさびしい、と思う。

棚の透明度

ずいぶん前に読んだ井上ひさしの『自家製文章読本』に、「透明文章の怪」という章があるのを、書架の整頓中にふと思い出した。
いわく、文章そのものを感じさせない、修辞や技巧を労さずとも文意がすっと伝わる「透明な」文章こそが素晴らしい、とする文章家たちの主張はそのまま受け取ってはいけない、そもそも文章は読み手を(良い意味で)つまづかせ、おっと思ってもらわないといけない、「透明」だとされる名文も一見そう思えるだけで、実は技巧や修辞が凝らしてあるのだ、云々。
棚にも透明度があるような気がする。お目当ての本がすっと見つかる、ファインダビリティの高い棚は、透明度の高い棚。逆に、こんな本があったのか、とか、この本の隣にこの本がくるか?、と、驚きや発見のある棚は、透明度の低い棚。というよりは、鮮やかに彩色されたアーティスティックな棚というべきか。方向性は違えど、どちらもその目的を達するために、相応のアイデアや技巧、気配りが必要な、手のかかった棚だ。配置や表示、OPACなど、工夫の余地はいくらでもある。
NDC100区分で漫然と並べたよくある図書館の棚は、さしずめ半透明の棚?、それとも迷彩の棚? 目当ての本を見つけにくく、さりとて意外な発見があるわけでもない、ぼんやりぼやけた、あいまいな棚。
棚は図書館の顔。バッチリ決めるのも、すっぴんメイクにこだわるのも自由だけど、お手入れなしの素顔を堂々とさらすのもどうかと思う。