BEAYS(新装版)

本と図書館のことについて、つらつら書いてゆくblogです。

アクセシビリティ狂想曲

国立国会図書館が、先日(つってもひと月くらい前だが)、「国立国会図書館ウェブアクセシビリティ方針」を発表した。いわゆるウェブアクセシビリティのJIS基準に基づき、等級AA準拠を、ウェブサービス全体に適用することを目標に、順次対応する、とのこと。
ウェブアクセシビリティへの対応については、総務省が、「みんなの公共サイト運用モデル改定版(2010年度)」の「ウェブアクセシビリティ対応の手引き」のなかで、国や地方自治体の既設ウェブサイトについては、2012年度末までに方針策定・公開、2013年度末までに等級A、2014年度末までに等級AAに準拠することを「目安」として示しており、これに従ったものと思われる。
やや遅れ気味とはいえ、ちゃんと自前の方針を出してるあたり、さすが国会図書館だなと思う。また、達成までの期限を必ずしも明確にしていないことや、CMSの管理下にないコンテンツを「例外事項」にしているあたり(いくつか同様のサイトがある。例えば、総務省こんな感じ)、よくわかっていらっしゃる(失礼)と思う。
件のアクセシビリティ対応、まじめにやろうとすると相当大変。何も考えずにこぎれいに作ったサイトには、文字色と背景色のコントラスト比が足りないとか、位置指定が相対値になってないとかの「問題点」がわんさかあるはず。個々のページのタグを打ち直していたらきりがないので、CMSで直せるところを直す、という対応にならざるを得ない。また、これほどコンテンツが多様で数も豊富なサイト全体を、あと2年で修正とか無理な話である。期限を切って中途半端な対応に終わるより、図書館サイトのモデルケースとして、順次でもきっちりと対応してほしい。

それにつけても、この件、地方自治体の公立図書館サイトの対応はどんな感じなんだろう。下手すると2013年度末が対応期限になってるトコもあると思うんだけど、あんまり話題になっているような気がしない。国が示してるのが「目安」だから、とりあえず静観というところが多いのだろうか。それとも、担当者だけが、水面下で阿鼻叫喚のデスマーチに泣いているのだろうか。

図書館サイトの場合、普通の自治体のサイトより対応が難しい点がある。図書館サイトは、地方自治体の公式サイトからは独立していることが多く、予算も別建てだろうから、仕様作成や予算獲得で後手後手に回ることが考えられる。おまけに、サイトのキモである蔵書検索の対応がこれまた面倒だ。入力フォームがわんさかあるから、ラベリングやキーボード操作への対応が求められるし、吐き出される検索結果もtableタグだらけだったりして、システムから作り直す必要さえある。ただでさえ使いにくいことで知られるWebOPACには、アクセシビリティ・ユーザビリティなどという概念は今まで存在しなかった、といっても過言でない。

これを機に、JIS規格に対応したWebOPAC標準装備のシステムが、増えるといいな、と思う。ちなみに、都道府県立図書館でframe使った横断検索を見かけるけれど、あれもたぶんアウトだと思う。総合目録形式の横断検索が今後増えるかも。

ブックフィニッシュと戒老録

久しぶりに現場に戻ってもう一つ気がついたことは、お年寄りのお客様が増えたな、ということ。印象論だけど、確実に多くなっている気がする。大活字本の充実とか、高齢者向けのサービス強化は待ったなしの状態。

それでふと思い出したのが、ちょっと前に読んだ『高齢社会につなぐ図書館の役割』にあった「ブックフィニッシュ」なる概念。「フィニッシュ」の語感は微妙ではあるけど、乳幼児向けのブックスタートに対応するものとして、リタイア組の図書館活用を促すための試みはもっとされてもいいように思う。

むしろ、プレ「フィニッシュ」的なサービス、40代後半から50代の高齢者予備軍に向けて、老後に対する漠然とした不安を低減したり、物的・精神的な備えを始めたりするための本や情報を、もっと積極的に提供する必要がある気がする。曽野綾子さんの『戒老録』じゃないけれど、年を取る前に知っておきたかった、考えておきたかった、ってことは多いんじゃないかなあ。

ただ、予備軍にとっては、老いについて考えるのは嫌なこと、忌避すべきことだったりするから、需要はないよなあ、きっと。

「現場」に戻ってきました

2年ばかり図書館から離れていましたが、めでたくお勤めを終えて、娑婆ならぬ現場に戻ることができました。戻ってきた記念に、縮小更新。

戻ってみると、システムは替わってるわ、人は代わってるわ、すっかり浦島太郎状態。というか、むしろ、覚えてること、忘れてること、新しく変わったことがまぜこぜの初期認知症みたいな状態に。Good greif! ま、嘆いてばかりもいられないので、ボチボチやります。

それにしても、戻って一番感じることは、上(首長、執行部、議会など)が今何を考え、何をしているか、全く伝わってこないなあ、ってこと。役所の末席に座ってると、他所の部署からいろんな情報が入ってくるし、周りから協議や電話の声が否応なしに聞こえてくるから、なんとなく我が自治体の向いてる方向がわかるのだけれど、出先ではそれがない。「流れてる時間や空気が違う」ってこんな感じなんだろうか。

すぐに慣れてしまうんだろうなあ。慣れないでいられたら、逆になかなかすごいな、と思ったり。

図書館は新装版がお嫌い?

先日、新聞の書評欄を読んでいたら、欄外広告に懐かしい名前が。仁木悦子か、昔、大好きだったな、と感慨ひとしお。『猫は知っていた』とかがポプラ社のYA向け(?)文庫で出てるらしい。今どきのポップな表紙が印象的で、また読んでみたいと思わせる。
こういう昔の作品が読めるのも、図書館のいいところ……、と思ってはみたものの、よくよく考えると、あまり現実的でないな、とも思う。例えば、『猫は知っていた』の初版は1957年。内容はともかく、表紙や装丁、字体や字配りなど、当時のままの本では、今の若い世代が気軽に手に取る気になるとは到底思えない。
忘れられかけた名作、読むべきとは思いつつ何となく手が伸びないような古典に、今風な表紙を付けて装丁を新しくしたり、ちょっとした解説をつけたりして、新装版として世に送り出す。新しい読者はもちろん、既読者も読み返してみたくなるような本にするのは、編集者の腕の見せ所で、かなり力が入ってるんじゃないかと思う。イチ読者としてもありがたい。でも、図書館はこういう新装版を嫌うんだよなあ。積極的に買ってるところは少ないのではないかと思う。かくいう当方も、選書してた頃には、「新装版」って表示のある本(で前の版の所蔵があるもの)は、たいていスルーしてた。限られた予算なんだし、出来るだけ同じ本は買いたくない。
とはいえ、中身は一緒なんだし、前の版でも良いよね、っていうのは、ある意味、ものすごく傲慢な話だ。新装版の編集者さんは、古い本を目利きして、そこに新しい命を吹き込むために様々なアイデアや地道な編集作業を付け加える。そこに新しい価値が生まれ、新しい読者との新しい出会いが生まれている。それをまったく無視して、新装版は買いません、昔のならありますよ、というのも考えてみたらおかしな話だ。
まあ、この先、電子書籍が普及して、データで読むことが普通になったら、ひょっとすると、新装版、なんてものはなくなるのかもしれないけれど。字体や字配り、縦書き横書きの区別なんてのはビューア依存になり、自由にカスタマイズできるようになったら、少なくとも形としての読みやすさは、無視できるようになる。そうなれば、図書館もキュレーターっぽく、胸を張って古い作品の再評価なんかが出来るようになるのかもしれない。

立つ鳥、後に残す、ということ

春は別れの時期でもある。今年も、長く図書館を支えてきた多くのベテラン司書が、現場を離れていくことになる。その方々が獲得し蓄積してきたノウハウが、今まさに、失われつつある。
特にレファレンスには、長年の経験が必要とされている。資料の知識、インタビューのスキル、業界内外とのコネクション、皆、一朝一夕には得られない。経験こそ貴重な財産。だが、それは司書一人ひとりの所有物なのだろうか。
確かに、長年努力して研鑽を積んだのは一人ひとりの司書。しかし、少なくともレファレンスは、質問してくださるお客様がいて、初めて成立するもの。レファレンスの経験の蓄積とは、いわば、司書とお客さまとの共演が生んだ宝物だ。ベテラン司書が欠けることで、その宝物が失われてしまうとしたら、こんなに悲しいことはない。
音楽家は、楽譜を残すことで、自身の仕事を後世に伝えている。楽譜がなければ、どんなに素晴らしい音楽も、その場限り。財産として後世に伝わることはない。司書の仕事も、できる限り記録して、残し伝えていくべきだ。マニュアルでも、レファレンス記録でも、パスファインダーでもいい。ベテラン司書は自分の、そうでない司書はベテランから聞きだした、この貴重な暗黙知を、どんな形でもいいから文字化して、残して欲しい。できれば、お客様とも共有できる形で残せたら、なお良い。
資料を次代のお客様に残すことは、図書館の使命の一つ。ならば、資料を効率よく使うためのノウハウを、次代のお客様のために伝え残しておくのは、当然のこと。ともすれば、その場限りのものとなりがちな司書のパフォーマンス(功績)が、いたずらに失われてしまうことのないよう、切に願う。

司書とクレドとレーゾンデートル

職場で、クレドを作ろうという話が出た。クレドといえば、たしか、リッツ・カールトンってホテルが有名だったな、と思いだして、年末に、『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』を読んでみた。
うーん、とうならされることの多い本だったのだけれど、とりあえずクレドの作り方については、まず、自分たちは何者なのかを突き詰めよ、とある。なるほど、司書とは何かってわけだ。そういえばドラッカーも同じようなことを言ってたなと思いつつ、つらつら考えてみる。
本や情報を扱うプロ、本と人を結びつける存在。うーん、なんか一言二言でわかりやすく言い表せないかなあ。ガイドとか、水先案内人(ナビゲーター)とかはすぐ思いつくけれど、なんとなく「誘導する」というイメージが強い気がする。ソムリエなんかさらにエラそうだし、コンシェルジュほどいろんなことができるわけでもない。
あくまで、活字と情報探しのエキスパートとして、陰ながらサポートします、という姿勢を表現したい……と考えて、思いついたのは、「道路標識」。指し示しはすれど、それ自体は強制しない。空気のようにそこに存在して、道に迷ったときだけ目に入るもの。ただ、一方通行とか一時停止とか、何気に見逃して痛い目見ることが多いから、道路標識って正直あまりいいイメージじゃない。語呂も悪いし。ま、それは道路標識のせいじゃないんだけど。コンパスとかのほうが良かったかしらん。
いずれにせよ、「私たちは道路標識です」なんてクレドもあんまりだから、ちょっとペンディングして、もう少し考えてみることにする。