BEAYS(新装版)

本と図書館のことについて、つらつら書いてゆくblogです。

分類の未来と客観性と~『自然を名づける』を読んで

久々に面白い本を読んだので、久々に書いてみる。

読んだ本は、コレ。

カーリルで開く

書架の整頓しててたまたま手に取った本で、職業柄、興味が湧いてきたので読んでみると、これが面白かった。

ヒトが、食べ物や外敵を見分ける(=分類する)ために発達させてきた「環世界センス」。身の回りの生き物を見分けることのできるこの直観的な能力を、リンネをはじめとする分類学者たちは分類法として一般化した。でも、環世界センスはあくまで主観的なもの、それに基づく分類法と分類学は、客観的な「科学」となるために迷走を続け、ついに分子生物学と出会って環世界センスと訣別、めでたく「科学」として認められるにいたった。しかし、その代償は大きかった。

分類上、魚類は存在しない、と公言する現在の分類学は、どこまでも環世界センスに縛られている普通の人々の認識からかけ離れたものとなった。それと歩調を合わせるように、生き物に対する人々の関心は薄れてゆくばかり。葉っぱの形や鱗の色を見分けるために使われていた環世界センスは、今やスーパーの売り場で商品のロゴマークを見分けるために使われる始末。著者は、環世界センスを取り戻さなくては、と主張する。客観性一点張りではなく、人々の理性と感性をともに満たしてくれる、魅力あふれた生き物の学問としての分類学が、今、求められている、云々。

リンネやダーウィンの話は何となく知っていたけれど、それ以降の分類学の歴史については初めて知ったことばかりで、とても面白い。長らく行われていた分類は、実は環世界センスに基づいていて、極めて主観的だった(足の形が似ているから近縁って、近縁であるその根拠は誰も説明しなかった)ってのもびっくり。その後、コンピュータの発達から、特徴を数値化して統計的に比較することで分類する数量分類学が生まれ、分子生物学の発達がDNAから進化の系統を読み取る分岐学をもたらしたとのこと。科学としての客観性が、科学離れ、生物離れを結果的にもたらす。父親殺しで結局自らもがんじがらめに、ってパターンか。

閑話休題。わが業界も長らく本の分類を生業の一つとしているけれど、本家の分類学に倣っていえば、いまだ環世界センス的なものに基づいて、主観的に分類している段階といえるんじゃなかろうか。いちいち通読してたらきりがないから、書名や目次、梗概といったわずかな手がかりから、NDCやNDLCという羅針盤によりながら、その本の分類上の位置(つまりは本棚の位置)を決めていく行為は、まさに生物の分類と同じ。そして、客観的かつ絶対的な正解があるわけではなく、分類するカタロガーの判断によるところが大きい。極端な例だと、タレントさんが書いたエッセイは、タレント本としての分類(778)だったり、エッセイとしての分類(914)だったりする。まあ、学問じゃないから、どこにあるか判ればそれでいいんだけどね。

そのうち、本もフルテキストデータ化された上、テキストマイニングで分類するような時代が来るのかしらん。○○と××という単語が頻出するから、とか、比較検討した結果、この本のこの部分は、別の本のある部分を受けて書かれている可能性が86.2%だから、とかで、客観的かつ自動的に分類されるようになる日が来るのかも。それって、やっぱり普通の人の「この本はここにありそう」感と食い違うものになったりするんだろうか。それとも、ただでさえ絶滅危惧種のカタロガーさんは、近い将来、完全に息の根を止められるのか、などなど、妄想するのも面白い今日コノゴロ。